湘南江ノ島のビーチでヘッドセラピー(アクセスバーズ)を中心に施術を行っております、”あゆ”と申します。
施術やオンラインレッスンを受ける前に、私が一体どんな人物なのかを知って頂きたいと思い、プロフィールをまとめました。
あなたが望む人生を手に入れる際に私の人生経験が、何かのお役に立てば嬉しいです(*^^)v
基本情報
【氏名】あゆ
【年齢】アラフォー (気持ちは永遠のセブンティーン!!)
【血液型】おおらかなO型
【出身地】静岡県
【お店の所在地】神奈川県湘南エリア(詳細はご予約の方にお伝え致します)
【趣味】ダンス、写真撮影、心身の美の研究、旅行、妄想(自称妄想族総長w)
【座右の銘】Love the life you live, Live the life you love♡
(自分の人生を愛せ、愛せる人生を生きろ!レゲエの神様ボブ・マーリーの名言♪)
【資格】リラクゼーションセラピスト2級、 アクセスバーズプラクティショナー、アロマテラピー検定1級
【職歴】OL、営業、スタジオカメラマン、塾の採点スタッフ、着付師、モデル、カフェのマネージャー、そしてセラピスト (いろんな仕事をして参りましたので、お仕事のお悩みは少しは理解出来るかと思います♪)
個人年表(経歴&ショートストーリー)
・誕生
→クリスマスイブに生まれる予定だったが、中々この世に生まれる覚悟がなかったのか、一週間以上遅れたお正月に、帝王切開で無理矢理誕生w
ミルクも飲まなかったので、生まれてすぐに2週間ほど母とは別の病院で入院。
きっとこれは私の第一次反抗期だと推測www
・幼少期
→一人っ子で、周りに同世代の子供もいなかったためか、あゆワールドが炸裂する日々。
歌って、踊って、モノマネして、周囲の大人に笑いを提供(していたと思う)。
『一人っ子=ワガママ』と周りの人に思われない様に、と厳しく育てられてきました。
・幼稚園時代
→自分から何かを言わなくても何とかしてくれる大人の世界から、自分からコミュニケーションを取っていかないといけない子供の世界に違和感を感じる。
怪獣のように騒ぐ子や、絵を描いたり、積み木をして楽しむ子がいたり、一体何なの?この動物園は??と日々感じていましたw
友達の作り方すらわからず、周りの様子を一人でぼーっと見ていたり、声を掛けてもらうまで友達と遊べない自分がいました。
(水をかけられても何も言えず、静かに涙を流していた記憶も。今の私だったら…以下省略w)
・小中学校時代
→田舎の学校だったので、ほぼメンバーは変わらず、ゆるく楽しく、おてんば娘へと成長していきました。体育の時間に徒競走をすると、走っている自分がおもしろくなっちゃうほど運動神経は神レベルな残念感なのですが、運動会では応援団に入って踊るのは好きで、体を動かすこと自体は好きでした。
(運動会の徒競走の際に両親を見つけるとニコニコしながら走ってしまうので、ヘラヘラするな!とよく言われましたw)
中学ではなんとなくゆるく楽しく体を動かせそうな卓球部に所属する予定だったのですが、友達に誘われた挙句、優しい先輩達(後に鬼になったw)にお願いされ、
吹奏楽部に入部し、ユーフォニアム、チューバ、トロンボーンの金管楽器の中低音を担当しました。
先輩達がいなくなった3年の時には、コソコソとドラムの練習もしました♪
3年生時には吹奏楽部の夏のコンクールで東海大会まで出場することが出来ました♪
・高校時代
→高校に入ったらバイトをしながら、当時ハヤっていたガングロルーズソックスなギャル女子高生の真逆をいく、色白で真っ白ハイソックスの清楚な女子高生生活を送って、あゆワールドを出していこうと思っていたら、また吹奏楽部の部室にいましたwww
入学して1週間ほど経ったある日のこと。
校内放送で私の名前が呼ばれ、
「大至急職員室の吹奏楽部顧問Nのところまで来てください!」
入学早々何かやらかしたのか??と思ったら、
「吹奏楽部に入らなくていいのか?後悔しないのか?」
と言われ、華の女子高生生活か、休みも無く毎日部活に励み、血と汗と涙の吹奏楽部員の生活か迷いに迷った結果、吹奏楽部に入部することを決めました。
なぜならば、ホントにイヤになったらいつでも辞められるけれど、吹奏楽の演奏を聴くと楽しくなるし、また演奏したいと思う自分がいるから、【後悔しない選択肢】を選ぶとするならば、入部する方を選んだ方がいいという結論に達し覚悟を決めました。
そして2年生の6月に3年生が文化祭と共に引退し、私はその後を受け継ぐ部長になりました。
夏のコンクールだけではなく、定期演奏会も開催し、表面的にはとても充実した学生生活のようですが、
仲間とうまくコミュニケーションが取れず苦悩し、どうしていいかわからずに毎日泣き、土日も朝から夕方まで練習があるにも関わらずおにぎり一つも食べれないような日々を送っていました。
今となっては懐かしく、チームをまとめる時に必要な学びをさせて頂いた貴重な想い出となっています。
イヤ、よく頑張ったわ、あの頃の私www
・大学時代
→中高と吹奏楽部に”入ってしまった”ので、これはもう大学も吹奏楽部に入ってやろう!
と腹をくくって入学したと思ったら、吹奏楽部すら無く、仕方なく高校時代の吹奏楽部員仲間であり、同じ大学に入学した悪友Hくんとブラスバンド同好会を立ち上げ、
3年生の時にはブラスバンド部に昇格させ、ゆるく楽しく練習し、練習後に食堂でダラダラお菓子を食べたり、カラオケで騒いだり、高校時代に出来なかったことを楽むことが出来ました。
(そしてまさかの部員同士の結婚というキセキの場を提供出来た私だったのでした!!スゴイ♡)
また、大学に入学する少し前から社会人の吹奏楽団から声を掛けて頂き、活動することになりました。
中高時代のような上下関係は無く、でも私より年上のベテランの方ばかりで緊張しながらも充実した音楽ライフを送っていました。
・就職(22歳)
→総従業員数1000人超えの地元の大手企業に就職。
高校時代に心理カウンセラーになりたいという思いはありながらも、担任の先生に
「友達の恋愛相談じゃないんだし、大学院に行かないと仕事は無いし、稼げないぞ!」
と言われ、特に将来の夢も無く何となく給料の良い企業に就職出来て一安心。
何故か社内では村八分と化している部署の営業事務に配属され、他部署の方々から心配されながらも毎日ストレスと戦い、胃腸炎がクセのように頻発してしまい、常に胃薬を持ち歩きながら生活していました。イヤ~ここも辛い想い出(*_*;
24歳の頃には山陰山陽エリアの営業として、微力ながら社内の売り上げに貢献させて頂きました。
・結婚(25歳)
→大学時代に出逢い付き合い始めた元夫(現在離婚しておりまして、シングルライフを満喫しております♪)と結婚。
一人っ子だったため、婿養子であることが必須でしたが、次男だった元夫は難なくクリア!!
人生で初めて親元を離れ生活するようになる。
元夫の転勤の予感を何となく感じ、仕事は26歳で辞めて、約2年間は塾の採点スタッフとして働いていました。
・引っ越し(29歳)
→私の予感は当たり、元夫の転勤で神奈川県に引っ越すことになりました。
そして29歳以降は神奈川県に住んでいます。
・妊娠、流産、不妊治療の日々(28歳~30歳)
→30歳までに2人子供を産めたらその後の人生もとんとん拍子にいくだろう!
そんなぼんやりした計画をしていました。
…がしかし!!
そうはうまくいかず、28歳で初めて妊娠したものの、母子手帳を受け取り、あともう少しで8週目ぐらいというところで流産しました。
中々お腹の中で大きくならず、不安な思いが的中するかのように、ある日の検査で心音が確認出来ないと言われました。
「中々信じられないかもしれませんが…大丈夫ですか?」
とお医者さんにそのことを告げられた時、私は
「はいっ!大丈夫です!!!」
と答えたのですが、車に戻るや否や泣き崩れたのでした。
(あぁ~私は悲しいのだなぁ~)
と客観的な自分もいたのですが、嬉しい、悲しい、などの様々な感情を閉じ込めて生きていたことに改めて気づかされるのでした。
このぐらいの早期の胎児の場合は自然に母体から出て来る場合もあるようですが、もしも一週間しても出て来なかった場合は手術になると言われていました。
私はまだ何となく信じられない気持ちでいっぱいでしたし、もしかしたら??というキセキのような淡い期待もしていましたが、その想いもむなしく、5日後にお空へ帰って行きました。
その別れは突然で、明け方目が覚めたと思ったら、お腹の中で「ぶちっ」というような音が鳴り響き、イヤな予感はしながらも、だんだんお腹が痛みだし、痛む感覚の波が押しては寄せる波のようで、陣痛ってこの何百倍も痛みがあるのだろうなと思いながらも、冷や汗で衣類が濡れるほどでした。
約半日程痛みと戦っていると、何かが出て来る感覚があり、トイレへ駆け込むと血の海となりました。
その後は心の中でお祈りをし、心身の疲れから泥のように眠りました。
その後も1度稽留(けいりゅう)流産を経験し、子供が産めない私は人間として何か欠陥があるのだろうか?と悩むこともありました。
そんな時に神奈川へ引っ越しになり、地元静岡に比べると医療や不妊治療専門の婦人科もあり、何かいい変化があるかもしれないと期待を抱くのでした。
引っ越しが落ち着いた頃に、子供写真館で契約社員として働きながら不妊治療をスタートさせました。
卵管造影検査や子宮の検査など不妊治療において必須検査からスタートし、排卵日前後の検査や排卵誘発剤を飲んだり、不妊に良いとされる漢方薬を飲んだり…ホルモンバランスも乱れてしまいます。
たくさんのお金と時間を費やしていて、どこにも問題がないのに妊娠に至らない辛さ。
そして一番辛いのは子供写真館での仕事で、両家揃ってのお宮参りの写真撮影をする時でした。
子供を囲んでみんなが笑顔になって、その一瞬を切り取るというのが私の仕事なのに、心の中では全然笑えていない自分がいました。
時には休憩時間中に涙を流すこともありました。
年齢的に周りの友人に子供が生まれる頃と重なり、心の底から周りの人の幸せを全く喜べない自分に苦しみ葛藤しました。
終わりが来るのかもわからない治療生活の中、ぼんやり考えていたことがありました。
そもそも私は子供が欲しいのか?
ということでした。
それは子供が好きじゃないということではなく、結婚の次は出産することが当たり前の儀式のようになっているけれど、私は本当にそれを望んでいるのか?そもそもなんで子供が欲しいと思ったのだろうと考えてみると、
親や周りが喜ぶし、期待されているから
ここに辿り着いたのです。
人は子供を育ててやっと一人前になるとよく言われていますが、子育てした大人はみんな尊敬に値する神々しい人間なのかと考えると決してそんなことはなく、子育て経験のない方でも人として尊敬出来る方はたくさんいます。
もちろん子を想う親心や無償の愛を知らないで終わってしまうかもしれないけれど、私は私にしか出来ない経験や気持ちを味わうことが出来るかもしれない!
という想いがよぎり、希望を感じました。
もう誰かの幸せのために自分を犠牲にするのはやめよう!!
そう思い30歳で治療を終了させ、やりたいことをやって生きていこうと決心したのでした。
・離婚(32歳)
→元夫との仲は傍から見ても良かったと思うのですが、私はずっと気になっていたことがありました。
それは仕事についてでした。
朝7時には家を出て、遅い日は22時や日をまたいで帰って来る日もありました。
そんな状況でもやりがいや楽しさを見出せて、仕事を楽しめていればいいのですが、
帰って来るや否や食事を食べながら疲れ果てて寝てしまい、職場でのストレスから鬱状態に陥り、一週間ほど仕事に行けない状態に追い込まれました。元夫なりには責任感を持って仕事をしていたのだと思うのですが、
そこまでして好きでもない仕事に心身ともに疲れ果てながら定年まで時間を捨てるの?
そして今の延長線上の未来の定年後に楽しい生活が待っているとは全く想像出来ませんでした。
ある日私は休日にのんびりとくつろいでいる元夫に
「今の仕事をずっと続けていくの?他にやりたい仕事があるなら転職してもいいよ!給料下がったら共働きすればいいんだし!」
と質問したところ、元夫は、
「ん~他に仕事するって言ってもやりたいことないし、求人してないだろうし…」
「そっか…」
元夫から予想通りの回答が来たことで、自分の将来についてのことをいろいろと考えた結果、
このまま一緒にいたらそれなりの生活は出来るかもしれないけれど、自分が還暦を迎えた頃の様子が容易に想像出来るうえに、
そこには何のワクワク感も無く、むしろやりたいこともやれない、老後のことで精一杯で、いろんな所へ出掛けたり、思う存分余生を楽しむ余裕すらないだろうということが何となく予想出来てしまったのです。
そして私は覚悟を決めました。
「離婚したい…」
と伝えました。
理由は他にもありますが、私自身仕事が好きだし、いつか好きな仕事でお金を頂くことが出来たらいいなと思っていましたので、死んだように会社の駒として働いている元夫がイヤだったのだと思います。
そして1年間話し合った結果、32歳で離婚することになり、ぬるま湯に浸かっていた自分が急に厳しい現実に目を向けなくてはならなくなりました。
(今でも必要があれば元夫とたまに連絡を取るのですが、2021年現在、無事に再婚しお子さんもいらっしゃり、幸せな家庭を築いています。それを心から喜べるようになったのも、自分らしい生き方を選択し続けてきたからだと確信しています)
・シングルライフ(32歳~現在)
→離婚と同時に実家へ戻って来い!と父に言われることを想定し、強行突破で先に部屋を借り、全て整えた後に元夫と離婚の報告をしに私の実家へ行きました。
案の定実家へ戻ってくることが離婚の条件でしたが、私はハッキリと
「イヤです!!」
と伝え、
「お前は何を考えているんだ!!!」
と父に怒られながらも、ここで自分の気持ちを押し通さないといつまで経っても何も変わらない、自分の人生を生きることなど出来なくなることはおろか、誰かのための人生を生きる生活に逆戻りしてしまうと思い、頑なに反抗し続けました。
ここは元夫が協力してくれて
「あゆは一人でもやっていける人間だから大丈夫です!!!」
と私の両親に言ってくれたんです。
その言葉にはとても愛を感じたし、背中を押してくれたようで【運命の相手】だったのだろうな、と感じた瞬間でした。
人生の中でたくさんの人との出逢いと別れがあり、どの出逢いにも出逢うべき理由があると私は思っています。
その中でも元夫は、私らしく生きることに気がつかせてくれ、後押しし、それを最後まで見届けるという理由があったのだと思います。
離婚後に
元夫と会った時、
「あゆのおかげで自分には優しさや気遣いが足りなかったし、いろんなことが出来るようになったし、学ばせてもらったから感謝しかない」
と話してくれ、お互いが出逢い成長して、出逢うべき理由が全てクリアしたからこそ、比較的スムーズに離婚が出来たのだなと勝手ながら感じています。
少し話が脱線しましたが、子供写真館の契約社員で働いていた私は当初は元夫の扶養の範囲で働いていたため、年収100万未満でした。そのため、貯金は引っ越しできるギリギリのお金と20万のみで、そこから必要な家電を買いそろえていったので、手元に残ったお金は一か月をギリギリ生活できる程度のお金でした。
もちろん両親の反対を押し切って一人暮らしをしているため、お金を貸してだとか、○○を買って欲しいだとか言えません。というか言いたくない!というしょうもないプライドもありますwww
これからは自力で生活費を稼がないといけないため、写真館での仕事は辞め、海が見えるカフェでマネージャーとして社員になり、毎月安定した収入を得るようになり、初めての一人暮らしが始まったのです。
カフェでの仕事を約3年行い、あるきっかけでセラピストに転職しました。
続きはサロン開業ストーリーの方をご覧ください♪(後日リンク貼りますのでお待ちくださいね!)
私の性格や価値観について
私は小さな頃から自他共に認める不器用さんで、何をやってもうまく出来ず、両親だけではなく、幼稚園の先生からも
「なんでこんなことも出来ないの!」
「雑っぽい!!(スピード感も無いのでみんなのスピードに合わせたら雑になっちゃうw)」
「もっとちゃんと出来ないの?」
こんなことをよく言われました。
(大人でもグサグサ刺さる言葉ですよね!??)
本人としてはチョー真面目に一生懸命やっているのですが、1つ1つ納得して理解していないまま先に進めないんですよね”(-“”-)”
しかも工作なんかでは物を立体的に見ることが出来ないんです(*_*;
そんな自分を一言で言うと
THE思考人間!!!!!
元々持って生まれた性質としては、あゆワールド全開な奇妙な行動人間だったのですが、
組織の中で変に飛び出したりしないよう周囲と足並みを揃えたり、
同世代の子供達とのコミュニケーション能力が低かったため、誰かにお願いをすることが苦手だったことから、どんどん内向的で【自分らしさ】を閉じ込めてきたように思います。
そこから
「どうしてみんなと同じように出来ないのだろう?もっといろんなことが出来るようになりたい!!」
そして
「死ぬまでに出来ることを増やしたい!知らないことはたくさん知りたい!!」
と歳を重ねて20歳頃から思うようになりました。
「こうなったらいいな♪これが出来たらいいな♪いろんな国にも行ってみたい♪」
そんなことを周囲に話せるようになった頃には
「女はそんなことしなくていい!」
「その性格は誰に似たの?そんな考え方普通じゃない!おかしい!!」
「常識で物事考えなさい!!!」
アレレ??不器用で行動も出来なかった私がいろんなことに興味を持って行動しようとすると、また周りから責められる!!!
「なんでダメなの?全然納得がいかなーーーーい!!」
そんな違和感を抱えながらも周りに抵抗する自分がおかしいのかと思うようになり、何となく大学を卒業し、何となく就職し、 何となく毎日過ごし、何となく悪くない生活を送っていました。(何となくでも不自由のない生活が出来ていたことに感謝しております!!)
でも30歳を過ぎた頃からふつふつと、
「私の人生ってコレでいいの?」
「私はずっと雇われ仕事で時間に追われたまま毎日生活しているの?」
「これは私自身が望む人生なのだろうか?」
と思う事が増えていきました。
周囲のみんなが納得しても私が1ミリも納得できない人生なんて全く意味がない!!
何かやりたいことがあるならば片っ端からチャレンジしてみよう♪
失敗しても命までは取られないから大丈夫!!
私は私自身が心から望むことを見つけて叶えていこう!!!!!
こんな気持ちを抱き、勇気を出して好きなことを深堀していこうと行動を続ける日々でした。
具体的にどんなことにチャレンジしてきたかと言いますと、
・着付けの勉強(実は着付けの師範でもあります)
・ベリーダンス(ジャズダンス歴2年、ベリーダンス歴は5年!)
・カフェでの仕事(パンやケーキを作ったり、お料理を作ったり)
・セラピストとしてボディケアの仕事(ボディケアの研修センターで学びました)
・お金の勉強(日本ってお金の話=やらしい話っていうのってなんかおかしいよね?と思い学び始めました)
他にもたくさんのことを、師となる方々から学んで来ました。
そして海外旅行も経験しました!(9か国ぐらい行ったハズ!一人旅も楽しかった♪)
自分がやってみたいと思うことを経験することで、とても心がワクワクし、周囲に何かを言われても全く気にならなくなっている自分に気が付きました。
(最近は両親も思い通りに動かない私に諦めがついたようで、細かな事を言われなくなりましたw)
だからこそあなたにお伝えしたいことは、
自分の本当に望むことを見つけてあげること
があなた自身の人生を変える第一歩だと私は思うのです。
セラピストの仕事を通しての気づき、そして私が出来ることって何だろう?
そしていざセラピストとしてお仕事をさせて頂き気が付いたことは
本来の自分を押し殺して生きている、もしくは見失っている
ということでした。
私がメインで行っているのは筋肉をもみほぐすボディケアセラピストなので、学び始めた頃は、無言で黙々と筋肉を押したり揉んだりすればいいのかと思っていたのですが、
私が学んでいるボディケアは
ボディケア×コミュニケーション
を大切にしているものなのです。
そのため、施術の際にたくさんのコミュニケーションをしていくのですが、その中の共通点として、
社会の荒波に揉まれながら生活しているお客様は身体の疲れも去ることながら、
精神的に疲れ切っている
ということに気が付いたのです。
具体的には、
・身体の緊張状態に自分自身で気が付いていないため、リラックス(脱力)の仕方がわからない
・ネガティブな発言が日常の方は、筋肉がほぐれてきても心が疲れている状態で、身体がラクになった状態でいられる期間が短い
(ネガティブな発言は悪いことではないと思っていますが、ご自身がそのことに気が付いていないことは問題なのではないかと感じています)
・「もしも願いが叶うなら?」などの質問に、イメージすら湧かない
などです。
身体をほぐしたらラクになるものだと思っていた私ですが、心と身体は別物だよな!ということを日々観察していくことで気付かされました。
そして逆に考えると
よく笑い、発言や物事の捉え方が前向きな方は、身体をほぐすと心もスッキリほぐれている
ということが非常に多いのです。
(既に600名以上の方の施術をさせて頂いており、その経験則を元にお伝えしております)
Why??なぜに??(矢沢節w)
その時に気が付いたのは痛みや、感情をコントロールする《脳》の問題なのではないかということです。
私の幼少期のように、周囲から言われた言葉や体験に深く傷つき、その記憶は歳を重ねるごとに薄くなってきているように見えますが、脳内にはしっかり残り、
こんなことしたら周りの人に変に見られちゃうから辞めよう!!
というように思考や行動のパターンが気付かないうちに決まってきていると思うのです。
なぜならば人はコンフォートゾーン(快適な空間)から抜け出すことはリスクがあるからです。
具体的には、
本当はやりたくない仕事をしていて、この仕事をやらずに暮らせたらどれだけいいだろう?と思うのに、
もう私は転職するには若くないし、新しいことを覚えるのも大変になるし、今より給料も下がるだろうし、今のこの仕事以上の仕事なんてないだろうな。
だからイヤだけど文句言いながらでも続けるか。。。
こんな感じで思考のクセがあり、周りからの言葉などに自動的に反応してしまうのです。
でもこういう発想をされた経験は少なからずあると思うのです。
我慢に我慢を重ねて、ストレスは晩酌で解放して、休みの日は疲れすぎて寝ている…
そしてそれを定年まで繰り返す…
そんな人生でいいのでしょうか??
もしも別の生き方が出来るのだとしたらどうしますか??
2019年に私が偶然にもご縁したヘッドセラピー(アクセスバーズ)では、
頭にそっと触れるだけで脳の断捨離を行い、思考のクセを解放していくことが出来ます。
そして思考が変われば言葉が変わり、行動が変わり、現実が変わっていくのです。
そして自分自身の本当に望む人生とは何かに気が付き、叶えるための行動が出来ると考えています。
私とご縁して下さったあなたが望む人生に向かって動き始め、叶えるための活力を与えられる自分でありたいと強く思っています。
そして人生において新たな発見の場所が当サイトであったら嬉しいなと強く思っています。
このサイトにご縁して下さり、ここまで読んで下さったあなた様の人生の転機となるお手伝いが出来たら…という思いでいっぱいです♡
2020年11月16日 大安吉日 あゆ
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